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理事長 伊吹 薫
[生年月日]昭和23年2月21日
趣味:山歩き、スキー、旅行、映画鑑賞
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戸田村へ行ってきました
  東京からの帰り、思いついて静岡県沼津市の戸田(へだ)村と言うところへ行ってきました。  先にブログに書いた本に触発されました。

日本で最初の西洋式帆船が作られた所だという事で興味がありました。  伊豆半島の西の根元辺りにある小さな漁村です。


 

 ここに沼津市戸田造船郷土資料博物館があります。



 岬の突端にあり閑散としています。休みなのではないかと思いましたが、開館していました。
この広場は「友愛の広場」と名づけられていました。 ム? 何処かで聞いたようなフレーズです。




 ロシアの提督、ワシリエビッチ・プチャーチン(当時は海軍中将、侍従武官長)が皇帝ニコライ1世の命を受け、平和条約締結のため遣日全権使節に任じられたことから江戸幕府とロシア帝国の外交がスタートしました。  この時に交渉の最前線にいたのが川路聖謨、超有能な幕臣です。

日米和親条約の締結に続き、1855年下田において日露和親条約が締結され、この時に北方4島が日本領である事が明記されました。   彼が来日した時の旗艦ディアナ号(2000トン、全長52m、乗員500名のロシアの最新鋭木造フリゲート艦)は、1854年に発生した安政東海地震に遭い下田沖で被災し、船は大破、修理のため曳航中に沈没してしまいました。 未曾有の天災の中、幕府は魑魅魍魎の諸外国と渡り合っていた訳です。  内政外交国防の混乱振りは、平成とは比較になら無かったでしょう。




 ロシア人画家が描いた下田港を襲う津波の様子です。



 戸田へ曳航の途中沈没したディアナ号ですが、その錨は昭和26年に1基、昭和51年に残りの1基が引き上げられるまで、海底に眠っていました。



 これがその錨です。  これが引き上げられるまで「唐人の根」と言われて、魚網被害に悩まされたそうです。


 さて、帰る船を無くしたプチャーチンは船の建造を幕府に依頼し、これが認められました。  当時はクリミヤ戦争中でロシアはフランス、イギリスと交戦中、船の建造などを極秘に進めるため、浦賀や江戸から離れた戸田の地が選ばれたようです。当時、フランス、イギリスの軍艦が極東には多数展開していたようです。

戸田村の船大工やロシアの技術将校が苦心して作り上げたのが、「ヘダ号」という小さな竜骨構造の、日本で最初の西洋式帆船です。  この技術が生かされ1862年に幕府は千代田号という帆船式軍艦を建造するにいたり、ここに日本の近代造船業が幕開けします。




 全長約25m、100トンの小さな物です。




 この小さな船にプチャーチン以下47名が乗船してニコラエフスクへ上陸し、シベリアを横断してサンクトペテルスブルグへ帰ったということです。  しかし、乗員の大多数はアメリカ船やドイツ船を雇い本国へ帰還させたそうです。
 プチャーチンも、わざわざ船を建造してまで帰還する必要があったのでしょうか?  その意図を記した物は何もありません。

 江戸末期のことですが、ここに外交や防衛の要諦があるように感じています。 ペリーは砲艦外交で日本に開国を迫り、1854年に日米和親条約を締結しています。  当時クリミヤ戦争で西方展開していたロシアも、危険をおかして日本への接近を計り、成功しました。  この時、あくまで話し合いによる条約締結を皇帝から厳命されていたそうです。
 日本は、中立の立場から、ロシアが日本で船を建造することを許可し、英仏には何等干渉を受けていません。
又、国として一定の外交成果のある条約を締結しています。


 


 その後プチャーチンは再来日し1868年に日露修好通商条約を幕府と締結しています。
 この戸田村にはその後明治20年頃プチャーチンの孫娘(ロシア女王の女官)なども来村し親交があったようです。 しかし、その後明治37年(1905)に日露戦争が勃発します。 日露戦争はロシアが満州支配を拡大し朝鮮半島への権益を狙いだしために起こったと言うことです。 つまり、ロシアは何十年にも渡って日本そのものを調べていたことになります。

 ロシアの南下政策はクリミヤ半島、朝鮮半島と歴史上繰り返し起こっています。 友愛という言葉とは裏腹に、したたかに相手の懐に入り込む隙を伺っている様に思えます。  これは冷徹な外交上の基本なのかもしれません。

 私たちは余りにもお人よしになり過ぎていて、誠実に付き合うべき相手も、そうでない相手も一まとめに平等にお付き合いしなければならないと思ってはいないでしょうか? 今の日本政府の混乱は、一重に外交と防衛に腰が据わっていないからという意見があります。  最もだと思いますが、腰を据えるとはいろいろな解釈があるので、難しいですね。

 誠実にお付き合いをしながら、相手を見極めて、先が読めるように、そして自らの道筋を希求しならなければいけないでしょう。 出来るかな? 各自が自分の持ち場で、しっかりと仕事をする事が大切なのでしょう。

 友愛とは絶対的に力の差がある場合に、力のあるほうが余裕を持って相手に接し、懐柔し自分に引きつける時の感情だと思います。 間違って解釈すると大変なことになるのではないでしょうか。

 予断ですが、プチャーチンは川路を非常に尊敬し、川路が徳川幕府に殉じた後も両家の末裔とのお付き合いが続き、日露友好150年を祝ったとのことです。 人と国の付き合い方は違うので、益々難しいですね。

医療法人IDC | 思いつくままに | 18:45 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
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Comment
戸田 文化協会の会長をしています
このたび戸田に来ていただきブログに出させて頂有り難う御座います
地元で時々案内をしています又来られるような事があれば、国の重要文化財松城邸も見られます、街中も案内を出来ますので宜しく
私のHPがあります
見て下さい
検索戸田村再発見です
http://web.thn.jp/yamanobu/

posted by 山口展徳 ,2011/11/14 7:42 AM










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